「師走の句」2014年12月
作句する時に、時期と季節感を気にしているだろうか。
僕は気にしながら作句している。その方が作りやすいし、感情移入がしやすいような気がしている。川柳は「人間と自然に生かされて人間を詠う」ものだと考えているので、四季感を意識しない訳にはいかない。特に一日一句をやり始めてからは、日記のかわりに一句を作っているので、その感が強くなったような気がする。
二十四年の十二月一日の句は「脳天の錆へ氷柱の五六本」で、去年の句は「どの影も刻を早めて師走の歩」であった。今年はどんな句が生まれるかは分からないのだが、師走への一歩を刻んだ句が生まれるのだと思っている。句は生き物なので、自己の想いを大切にしたい。
時期となると、新年と師走が気になり、思い入れが強いような気がする。それは、精神的にも始発と終着の趣があり、生きると生かされた、の違いなのかもしれない。今年もあとひと月となったので、川柳と生き生かされる喜びを実感しながら、一句を生み出し続けたい。
「評価」2014年11月
作品を世に送り出すのであるから、誰しもが評価を期待するのは、当たり前のことである。
初心のうちは、ただ一句を生み出すことに必死であるから、あまり評価などは気にはしないであろう。それでも、句会などで毎回没句ばかりだと、自信をなくして辞めたくなってしまうのは当たり前であろう。
僕も初心の時は、本社句会で3ケ月間も全没だったので、負けはなるものか、と気合いを入れたのは忘れられない。誰しもが賞を取りたいのであるが、なかなか思い通りにはいかないのが現実である。
課題吟での評価よりも、雑詠吟(自由吟)での評価を目指していく方が、僕は大切だと考えている。課題吟は技巧で生み出すことが出来るが、雑詠吟は自己の想いの深さが主題となるので、簡単ではない。日日の心の想いをいかに表現できるかが、重要なのだと思う。
評価とは、選者がいた上でのことであるから、多様な見方が生まれてくる。句の個性が芽生えることによって、光りが積み重なりあって評価へと結びついていく。評価のためには、句だけではなく、選者もし、文章も書き、句集も出し、総合的な力を発揮することによって、必然的に評価がされるものだと思っている。
自分で自分の作品を評価することが出来てきたなら、一歩の道が開けてくる。そのことを大切にして歩み続けたい。
「誰のために」2014年10月
一句は誰のために生み出しているのだろうか。
誰しもが、自分のために、と答えるはずである。それは、正しい答えである。自分の想いをいかに表現して残したいか、自己満足 でもいいからと思って。確かにそうなのではあるが、一句は自分から離れてしまうと、有る面においては、読者の評価の対称にな るのだ、ということも忘れてはいけない。
いかに自己満足ではあっても、他人の目に晒さないのであれば、日記となんら変わりはしない。作品として一句を生み出すのであるから、読者の目を意識しない訳にはいかない。そこから文芸作品としての価値観が生まれ、川柳人としての意識が高まっていくのである。
趣味か文芸(文学)か、との思いは、常につきまっとている。好き>で始めたのであるから、あくまでも趣味の世界さと割り切るのもいいのだが、何事においても向上心がなければならない。一歩でもいい作品を、との想いは消すことはできない。だからこそ、止められないのであり、一句を生み出す喜びと共に歩み続けられるのである。人生詩として、自分史として。
「共感」2014年9月
川柳を作りながら、その作品がどれだけの共感を呼ぶか、意識しているだろうか。川柳誌の中では、川柳人が読むのであるから、ある程度の期待はしていると想われる。だが、川柳人以外の人たちが読んだ時には、どれだけ人が共感してくれるのだろうか。
今回の、札幌市民文芸賞の選考に当って、川柳人以外の委員の方々から、何故に川柳作品を大賞にしないのか、の発言がなされました。
その作品は中村文彦氏の「白い部屋」でした。入院から退院までの想いを、素直な連作として吐露され、心を打つ共感を呼ぶ作品でした。そして、満場一致で大賞となりました。本当に嬉しいことでした。
一句を掘り下げて表現することも大切なのですが、市民文芸という市民を対象にした場合などは、いかに分かりやすく、ドラマ性があり、一幕ものの舞台劇とするか、が求められるのだと思います。
どうしても技巧に走り過ぎると、乾いた情となりやすいので、濡れた情の句を作ることが必要なのでしょう。分かる句、分からない句、賛否はあるのでしょうが、対社会に向かっては、分かりやすい作品を発信することが必要なのかも、と反省をさせられた選考委員会でした。
「終戦」2014年8月
八月になると、平和の大切さを実感させられる。地球上のどこかで、必ず戦火が上っている。
今まさに、イスラエルのガザ地区では、千人超の死者となり、負傷者は6千人以上に達しているという。
日本も戦後69年となったのだが、少しずつきな臭い機運が高まっている。
最高の頭脳を持った人間が、一番の愚考を犯すとは、悲しい現実である。
一昨年と昨年の8月15日の一日一句に吐き出した句は、
慟哭の御霊まぼろし終戦日
百花ゆれ白骨が泣く終戦日
であった。今年はどんな句が吐き出されるのであろうか。
身の回りには、川柳の題材は幾らでも転がっている。
事象のどこに視点を向けるかが、ポイントなのである。
川柳眼とは、自由な発想力を基点とした、視野と表現力との合体の所産なのである。
要するに、生み出し、吐き出すことなのである。
自己の思いを根底に置いて。
「全日本大会」2014年7月
6月28日(土)から7月1日(月)まで、富山の大会に行って来ました。
28日は「萱沼合掌集落」を雨の中での見学でした。
「五箇山の遺産と眠る傘の雨」
そして夜は前夜祭で、おいしいお酒を飲みました。
29日は大会で、500人以上が集まり盛会でした
「柳人の熱気富山のおもてなし」
残念なら、一声だけ呼名をしました。夜は札幌勢での一杯会でした。
30日は、貸切バスで、黒部ダムを観光しました。天気もよく、最高の景色でした。
「青春の残滓が眠る黒部ダム」 「感嘆の英知 立山の残雪」
僕にとっての、55年間も抱いていた黒四ダムへの思い出ですので、胸に迫る想いがありました。
そしてまた、夜はお酒に。
1日は、富山県水墨美術館で、水墨画の美に触れました。お茶室の「墨光庵」では、五分間吟を楽しみました。
「静謐な墨光庵の茶の果てに」
土産を買って、14時20分富山空港発で無事に帰札しました。
観光地での想いを旅の一句として残すことも、川柳人としては必要ではないかと思います。
「説明句」2014年6月
どうしても始めの内は、散文調で句を作ってしまいますので、説明句となりやすいのです。散文とは、語数や調子にとらわれ ずに自由に書かれた、普通の文章ですから、約束ごとがないのです。思ったままに書けばよいのですから。
でも川柳には、5・7・5という約束ごとがあります。
川柳は、韻文ですので、韻を踏む必要があります。
韻とは、
①音のひびき。音色。
②おもむきのあること。風流なさま。
③詩歌。
と解説されています。
5・7・5音の定型律に、韻を持たせることが必要となります。そのためには、上5中7下5音に、言葉のひびきと、趣をもたせなければなりません。そのことが、単に言葉を書き連ねていく散文とは違うのです。
例えば、「新緑が美しいから散歩する」では散文となっています。
「新緑が散歩の心踊らせる」「新緑が脱がせて躍る冬の殻」「新緑と散歩の足は天に跳ね」などと、リズム感が重要となります。 いかに言葉を選択し、組み合わせの妙味を感知するかが、大切なのです。
韻文を習得するためには、多読・多作・多捨が必要なのです。
散文から抜け出すためには、説明文から抜け出すことです。多いに読み、作り、捨てることが大切なのです。
「桜」2014年5月
4月29日に札幌でも開花宣言が出され、もう満開に咲いているのだから、自然の移ろいには感嘆をさせられる。待ちに待った桜であるから、心の底から浮き浮きとさせられる。花見酒をとは思うのだが、わが家の八重桜はまだ蕾なので、もう少し待つしかない。
感動を1句にするためには、見たままの想いを詠えばいいのであって、ある意味においては、実感句であるから表現はしやすい。感動をする心を磨いていないと、なかなか1句にはならない。年齢とともに感動する心が鈍化していくので、気持ちの若さを保つ必要がある。自然の中で生かされているのであるから、四季の移ろいに感謝して、感動を共有したいと思う。
体内の桜もひらく有頂天
これからの新緑に抱かれる季節を実感し、冬の垢を落としていく。冬と春との落差を体感し、その喜びを爆発させる。そこから1句が生まれ、心の輝きが発散される。自然と人間との共存の意識が、感動となって17音に刻まれていく。桜に心を打たれて。
「実感句」2014年4月
朝起きてから寝るまでの間で、どれだけの喜怒哀楽を実感し、頭の中に蓄積させているのだろうか。
年齢とともに感動することが薄れていき、日常が当たり前のように過ぎ去り、生かされている喜びを実感していないような気がしている。そのように感じるのは、平静を保とうとする心への抑制であり、素直さの欠如なのかもしれない。
実感とは、実物に接して得た感じ、であるから、いかに心が柔軟であるかが問われる。常に新鮮な目で日常を見ることができるか、が求められる。だが、世の中を見すぎて生きてきたことによって、感動を鈍化させていることに気がつく。
実感句とは、これまでに蓄積されてきた感動の欠片を引き出し、いまの光を当てることではないだろうか。鈍ってきた感動に喝を入れ、実感を呼び覚ますことが、体験を土台とした一句を生み出すのだと、実感しているのだが。
「句の重さ」2014年3月
一日一句を続けて三年目入ったのだが、一句を生み出すことの重さに気付かされている。単純な作業のような気がするのだが、ノルマとなると大変なのである。日記のかわりなので、身辺雑記の句にならざるをえない。
柳誌に発表する雑詠とは違って、日々の思いを吐き出しているだけなので、一句の価値観は自分で判断するしかない。一句の可否を問題にしていたならば、続けることは出来ないのではと考えている。ようするに心模様の吐瀉物でしかないので、自己満足するより仕方がないのだと思っている。
だが、一日一句を続けることによって、365日の想いが蓄積されるので、面白さも実感させられている。生みの苦しみは余りないのだが、日々に発想の展開を図らなければならないので、語彙の不足を再認識させられる。
日常にはそんなに変化がないので、変化をどう見つけるか、が悩ましい。でも積み重なった句には、生きた証が込められているので、分身としての人生史にはなるのだと思っている。まだ十カ月もあるので、捩子を巻かなければと思う。
「吹雪絵」2014年2月
早くも如月となった。あっと言う間の睦月であった。
まさにこれからは、吹雪絵の日々となっていく。その中で春を恋、雪の溶ける時をじっと待っている。これが北国に生きるものの当たり前の姿なのだが、理解はしていても、なかなか体が言うことを聞いてはくれない。
だが、川柳人としては、雪の中で生き抜く厳しさと、楽しさを一句にして生み出すことができるのであるから、ある意味においては感謝しなければならないと思う。
風土川柳が少なくなっている現状を考えると、北海道だからこそ詠える題材が山ほど眠っているのであるから、大いに詠う必要があると思っている。
自然と人間は、切っても切れない結びつきのなかで生かされているのだから、川柳人の眼による吹雪絵との葛藤を描出する必要がある。
人間を詠う川柳であるからこそ、俳句では表現できえない自然と人間の姿を、残すべきだと考えているのだが。
「新たな一句」2014年1月
おめでとうございます。
川柳を作り始めてから、早いもので43年目半ばに入った。よくも続いてきたものだと、自分ながらに感心している。
川柳とはそれだけ奥が深く、題材は無限なのかもしれない、と思っている。昨日の私と、今日の私は同じではないので、その心境や日常の移ろいを詠うことによって、また新たなる一句が生まれてくる。
まさに日記であり、人生史なのかもしれない。句の巧拙ではなく、いかに日日の思いを17音に託すことができるか、なのであろう。そのためには、日常のなかでいかに川柳眼を研き続けるか、なのだと思う。余り難しく考えずに、17音に自分を投げ入れることである。
投げ入れたならば、17音は言葉となって返ってきてくれる。その微妙なあわいを楽しむことである。心は言葉となって反響しあい、新たな一句となって必ず産声をあげてくれるのだから。
今年も、新たなる一句を生み続けよう。
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